保科正之の遺訓を守りぬいた、藩主・松平容保

第2代将軍徳川秀忠の庶子という境遇から、異腹の兄家光に見出され、
将軍輔弼役として幕政に精励、武断政治から文治主義政治への
切換えの立役者となった、会津松平家祖・保科正之。
明治以降、闇に隠された“名君”の事績を掘り起こす。
そんな内容の、
保科正之―徳川将軍家を支えた会津藩主 (中公文庫、中村 彰彦著)
が出版されています。
保科正之の生い立ち
慶長16年(1611年)5月7日、第2代将軍徳川秀忠の4男(庶子)として生まれる。幼名は幸松。母は秀忠の乳母大姥局の侍女で北条氏旧臣・神尾栄嘉(かんお さかよし)の娘(『以貴小伝』『会津家世実記』)、もしくは武蔵国板橋郷竹村の大工の娘(『柳営婦女伝系』)である静(志津、後の浄光院)。秀忠は慶長15年(1610年)2月から3月、慶長17年(1612年)3月から4月には駿府へ赴いているほか江戸近郊で鷹狩を行っており、静の妊娠はこの間のことであると考えられている。生誕地に関しては諸説あり、浦和宿近郊の現さいたま市緑区で出生したとされる。なお、「会津松平家譜」では江戸神田白銀の竹村次俊宅にて正之が出生したとある。
慶安4年(1651年)、家光は死に臨んで
枕頭に正之を呼び寄せ、
「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残した。
これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に
『会津家訓十五箇条』を定めた。
第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、
藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、
以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。
幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、
佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦った。
『八重の桜』は、2013年1月6日より放送されている
NHK大河ドラマ第52作。
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